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悩みや、絶望があっても、頑張って生きていれば、必ずいいことが起きますよ
漫画家・絵本作家やなせ たかしさん

取材・文/柿原恒介 、撮影/橋詰芳房
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「ぼくはみんなと遊びたい。たとえこの世がつらいとしても、うなだれてるのは好きじゃない」。 高知県の『アンパンマンミュージアム』のHPには、そんなやなせさんのメッセージが書かれています。 アンパンマンの生みの親である、やなせたかしさんが、子どもだけでなく、大人にも伝えてくるメッセージとは?

「僕は子どもの頃からシャイで、人前に出るのが苦手でしたね。5歳の頃に父親が亡くなり、母親とも離れ、伯父の家に預けられたんですが、ちょっとしたことで傷つき、もう生きていけないと思うような、悲観的な少年でした。中学生の頃には、自殺を考えたこともあります。でも、絵を描くのが好きで、〝漫画家なら人に会わなくて済むだろう〞と思い、漫画家になったんですよ」。

やなせさんが独立したのは、34歳のとき。それまで企業でデザインの仕事をしていましたが、心に秘めていた夢を追うために、漫画家に転身したのです。

「独立したけど、漫画の依頼は少し。それよりもリサイタルの構成、舞台装置、シナリオライターなど、漫画以外の依頼がいっぱいきたんです。自分からやりたかったのではなく、なぜか〝未経験でもいいから、やって〞と、知らない人が突然やって来るんですよ。放送作家だった永六輔さんに舞台装置の依頼の理由を尋ねると、〝やなせさんの絵が好きだから〞と言う。テレビや民放ラジオの草創期は、未経験の人にもチャンスを与える人が多かったんですよ」。

未経験の仕事は、普通ならばリスキーな行為に思えますが、それらの仕事は、今もなお、大いに役立つ貴重な経験となったそうです。

「人前に出る機会が多くなったことで、服装にも気を使うようになりましたね。人の見た目って、一種の勝負のようところがある。服装がだらしないと不利なんですよ。それに人と会うこが多くなることで、人を観察する機会も増えた。これは漫画家にとって財産になるんです」。

シャイだった青年はいつしか、業界が一目置く、マルチクリエーターに。しかし、漫画家としての成功は、次第に遠のいていきます。

喜んでもらえるものを目指したら、結果的に人びとの心をつかんだ

やなせさんの生い立ちから、戦後、絵本作家のみならず、テレビ、ラジオ、雑誌などのマルチクリエーターとして活躍してきた、現在までの自伝。

さまざまなエピソードには、涙と笑いと勇気と感動が詰まっています。

漫画家としての本業よりも、テレビやラジオなどで忙殺されていたやなせさんの転機は、1973年。詩の雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げます。創刊から編集長を務め、2003年までの長きに渡るまで、わかりやすい詩と絵で数多くの詩人、イラストレーターを輩出した雑誌でした。やなせさんは、〝これは道楽だから〞と、創刊当初は無報酬だったそうです。

「当時は、何を言いたいのかわからない現代詩が多かったので、とにかく読んでわかる叙情詩を発表したかったんです。利益が出ないことを前提にサンリオに話を持ちかけると、年に4回の季刊誌で出そうと言われた。3号続けば奇跡と言われたけど、なぜかめちゃめちゃ売れました」。

きっかけは、やなせさん曰く、道楽。しかし、その純粋な思いで創り上げられた雑誌だったからこそ、人びとの心に届いたのでしょう。やなせさんの純粋な創造性は、時を同じくして、後の国民的キャラクターを誕生させます。1973年、ボロボロのマントをまとった「あんぱんまん」(当時表記)が幼児用絵本として、出版されました。

「はっきり言って不評でしたね。パンが空を飛んで、顔を食べさせる話なんて、受けるわけがないと(笑)。批判ばかりだったので、以降5年くらいは描かないでいたんです。ところが、いつの間にか、子どもたちの間で人気が出てきちゃった。そのとき僕は、50代の後半。そろそろ仕事を辞めようかという頃に、人生が一転したんです。収入も10倍になったんですから」。

アンパンマンは絵本の大ヒットに続き、1988年にはテレビアニメもスタート。当時、月曜日の夕方5時は、何をやっても視聴率が取れない時間帯。実はアニメの企画が通るまでに3年もの月日がかかったそうですが、アンパンマンの視聴率は、7%超。常識を覆す出来事でした。

「最初に、〝無理だ〞と言われたもののほうが上手くいくことが多いのだと思います。〝これはダメだ〞というところに、意外性という光があるんですね」。

諦めず、頑張って生きていれば、悩みなんて、いつかはなくなる

人から仕事を依頼されたら、なんでもやる。そして、世の中にないものは、自分でつくる。漫画家として独立後、さまざまなジャンルに挑戦したのも、全ては〝仕事はスリルがあるほどおもしろい〞という冒険心を優先したからこその行為でした。落ち込みやすく、自殺を考えたこともある青年期のやなせさんには、とうてい想像できない将来の姿です。「若いときには些細なことも大きな障害に感じるんですね。アリにとっては、水たまりも大きな海のように見える。それを乗り越えて一生懸命生きていれば、必ずいいことはあるのに。頑張って生きていれば、悩みなんて、振り返って考えると、ばかばかしいことだったと思うものなんです」。

やなせさんは、これまで仕事を続けながら、心臓病をはじめ、さまざまな病気を患い、20回もの手術を経験してきました。それでもときには病院のベッドでさえ、仕事をしていたといいます。〝仕事があるから、早く元気にならないと〞。この思いこそが、やなせさんにエネルギーを与え続けているのでしょう。

「これまで僕は何度も死に直面しましたが、医学は1日1日進歩していく。去年は助からなかったのが今年は助かることがあるんですよ。だから、何事も決して諦めないでほしい。僕は今でも毎朝、病院に通っているけど、仕事をしている。人生はやっぱり気力ですよ。〝人を喜ばせる仕事がしたい〞という気力があるからこそ、今も元気でいられるんだと思いますね」。

『人生なんて夢だけど』

(やなせたかし著/フレーベル館刊 1,575 円(税込)

やなせさんの生い立ちから、戦後、絵本作家のみならず、テレビ、ラジオ、雑誌などのマルチクリエーターとして活躍してきた、現在までの自伝。

さまざまなエピソードには、涙と笑いと勇気と感動が詰まっています。

プロフィール

やなせ たかしさん
やなせ たかし (やなせ たかし)

1919年2月6日生まれ。高知県出身。 東京高等工芸学校図案科(現千葉大学工学部)卒業。 三越百貨店宣伝部グラフィックデザイナーを経て、53 年に漫画家、絵本作家として活動を開始。 『やさしいライオン』『アンパンマン』が人気を集め、一躍有名に。 73 年以降、03 年まで長きに亘り月刊誌『詩とメルヘン』(サンリオ刊)の編集長を務める。 また作詞家として、『アンパンマン』シリーズをはじめ、ポピュラーソング『手のひらを太陽に』の作詞でも知られる。
アンパンマンミュージアム:http://www.anpanman-museum.net/

あとぴナビ2008年9月号 掲載

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