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自分の思いに誠実にまっすぐに一歩を踏み出そう
俳優・画家片岡 鶴太郎 さん

取材・文/大石久恵、撮影/橋詰芳房
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20代から30代前半にかけて、お笑い芸人としてお茶の間の人気者だった片岡さん。32歳でプロボクサーライセンス取得を機として新境地を開き、映画やドラマで存在感のある役者さんとして活躍しています。現在は画家としての創作活動も続けている片岡さんに、人生の節目の決断、自分で決めた〈夢の到達点〉に一心不乱で向かっていく原動力についてお聞きしました。

1980年代にバラエティ番組でブレイクした片岡鶴太郎さんが芸人を目指したのは、小学生の頃でした。
「当時は東京の下町に住んでいて、親父に連れられて毎週のように落語を聴きに行きましたね。寄席で覚えた落語を家でや ると親父が喜んでくれてね。『将来は芸人に!』と思うようになりました」。

10歳で「しろうと寄席」(フジテレビ)に出演するなど、早くも芸人としての頭角を現していた片岡少年。でも勉強は大の苦手でした。「当時の成績はいつもぺケから1番目か2番目。両親も『勉強をやれ』とは言わないし、勉強のやり方自体を知らなかったんですよ」。

ドリルを解く快感がその後の人生の核になった

将来芸人になるにしろ、高校までは出ておきたいと思っていた片岡さん。でも中3の夏に「お前、都立高校に行くつもりなの? この成績じゃ、どこの高校も無理」と担任の先生に言われて愕然とします。

「親からは『お金がないから私立はダメ』と言われ、『都立に入れなかったら高校に行けない』とあせりました。不合格なら死ぬしかないとまで思い詰めていましたね」。
勉強をしたことがないという片岡さんが、何とかしなくてはと取り組んだのが、問題集のドリル。本屋にドリルを自分で買いに行き、がむしゃらに取り組みました。「中3どころか、中2、中1の勉強さえもわからない。だから小6のドリルから始めました」。小学6年のドリルを終え、中1、中2の問題が解けるようになると、いつの間にか中3の問題も解けるようになっていました。
「『解ける!』というのが快感でね。ドリルに熱中していました」。

問題を解くのが面白くて、徹夜で机に向かったことも。驚くべき集中力で受験勉強に取り組み、希望校に合格したのです。「受験校は都立1本。落ちたら行き先がないのでもう必死。それで、合格したときに『俺ってやればできるんだ』と気づいたんですね。ドリルの経験は、ぼくの人生の核になっています」。

次に進むためにプロボクサーを目指す

片岡さん32歳。芸人として多忙を極めた頃に、プロボクサーのライセンスを取る決心をします。売れっ子になっても充 実感を得られず、番組収録後は飲んで食べて遊ぶという刹那的な日々を繰り返していました。

「そんな自分がイヤで、トレーニングを始めました。子どもの頃からボクシングが好きで、今のままで終わりたくない、次のステップを探したいという気持ちが強かった。自分を立て直すためにも、ライセンスを絶対に取ろうと決めました」。

プロボクサーのライセンスは33歳までの年齢制限があり、タイムリミットまで1年。「落ちたら次はない。ワンチャンスをモノにしようと必死でした」。

体作りのために1日2食の食事管理など、規則正しい生活をスタート。片岡さんは、ぽっちゃり体型から精悍な風貌へと変身し始め、この頃から俳優の仕事が増えていきます。

自分にとって一番大切なものは何か

片岡さんが日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した、1988年の映画『異人たちとの夏』の撮影は、ちょうどプロテストの直前でした。

本番さながらのスパークリングで顔が腫れることがあるかもしれないと、片岡さんは役を降ろされるのを覚悟で、大林宣彦監督に打ち明けます。

「この映画は僕にとって非常に大事な作品です。でも、今はもう1つ大切なものがある。それはプロボクサーになることなんです」。

そのとき監督は「役者は顔を撮るんじゃない。精神を撮るんだ。後ろからでも鶴ちゃんの顔は撮れる。プロテストは応援に行くよ」と言ってくれました。大林監督の言葉には胸を打たれたという片岡さん。時には、「お笑いの世界ではポチャッとした鶴ちゃんがいいんだよ。なぜそんなことするの?」と否定的な意見もありました。

「『ボクシングは今のぼくの人生で一番大切なもの。たとえ仕事を失ったとしてもやりたい』そう答えました。誰になんと言われても、あきらめようとは思わなかった。切実な思いで取り組んでいたんですよ」。

椿の凛とした姿が絵の世界へ導いてくれた

今は画家としても著明な片岡さん。絵を描き始めたのは、40代目前の頃です。「自分がマネージャーを務めた鬼塚勝也選手が引退したり、連続ドラマが次々に終了したりで、充実した30代が終わりに近づくと、まるで引き潮がサーッと引いて いく感じがしました。

夕暮れに一人でポツンといるような無常感。『自分はこれからどうやって生きるべきか?』と、生き方の定まらない日々が続いた時期がありました」。

そんな頃のある寒い朝、ふと隣家の庭に咲く赤い花に心を奪われたのです。
「なんて可愛い花! 朝早く誰も見る人もいないのに、堂々と凛とした姿で咲いている。それに引き換え、僕はこの花のように凛と生きることができない。そう思うと、赤い花が胸に迫ってきました」。

その晩、赤い花が椿だと知った片岡さんの胸に「椿の姿をどうにかして表現したい」という思いがわき起こります。
「それまで花には無関心、絵を描いた経験もなかった。純粋に『椿の花を表現できたら、こんな素敵なことはない』と思っただけ。それがきっかけで絵を描き始めました」。

夢の到達点を決めて目前の今を楽しむ

もともとは、独学で絵を描き始めた片岡さん。
「僕は専門教育を受けていませんが、10年前にたまたま東京藝術大学の先生とめぐり会ったご縁で、国宝の修復を行う専門家から、日本画の技法や絵の具の扱い方などを学ぶことができました」。

めぐり会いがめぐり会いを生み、今日へとつながっています。夢をあきらめなかったのは「自分の内なる声に動かされたから」と片岡さんは言います。

「誰にでも内なる声を聴く瞬間があるはず。要はその声に耳を傾け、1歩を踏み出せるかどうか。自分がやりたいこと、大切に思うことに誠実であれば、魂が輝き、納得し、生きる喜びを感じることができるはず」。

最近の新たなチャレンジはお菓子作り。収録中のテレビ番組でパティシェ修行を始めた片岡さん。
「菓子作りは分量や配合が要。作り方に工程があり、その辺が絵と一緒ですね。やってみると何でも楽しいんですよ。自分なりの〈夢の到達点〉を決めて、まず目の前にあることを楽しむ! という気持ちを大切にしたいですね」。

プロフィール

片岡 鶴太郎 (かたおか つるたろう)

1954年、東京都西日暮里生まれ。幼少の頃から芸人の道を志す。高校卒業後、片岡鶴八に弟子入り。1980年代はバラエティ番組を足がかりに、全国区の人気 を得る。以降、芸人、役者として映画、ドラマ、バラエティなど幅広く活躍。1988年、プロボクサーのライセンスを取得。1990年代は画家としての道も切り開き、 様々なジャンルを横断して活躍中。

あとぴナビ 2010年 08月 掲載

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