あとぴナビ/スペシャルインタビュー 水野 雄仁


あとぴナビ/スペシャルインタビュー 水野 雄仁

あとぴナビ2009年3月号より
取材・文/津留有希 、撮影/橋詰芳房

水野 雄仁さんPROFILE
水野 雄仁
1965年生まれ。徳島県出身。プロ野球選手、野球解説者。池田高校時代、甲子園に3大会連続出場。うち1982年夏は外野手として、翌1983年春はエースピッチャーとして、全国優勝を果たす。ドラフト1位で巨人に入団し、1987年には10勝を上げ、チームの柱に。肩や肘の手術を経た後も、リリーフ、中継ぎとしてチームの勝利に貢献した。引退後は巨人の投手コーチを3年間勤めたあと、野球解説者、評論家として活躍中。

ポジティブに生きていくコツはがんばっている自分を自分がいちばん信じてあげること

さわやかな語り口の野球解説で、幅広い年齢層から人気のある水野雄仁さん。甲子園で大活躍した高校時代から「阿波の金太郎」と呼ばれ愛された人です。しかし、そのプロ野球選手時代は、挫折と再生の苦しい戦いの連続でした。水野さん流の、試練を乗り越え、前向きでいるための心構えとは?

読売ジャイアンツの投手として、「金太郎」の愛称で親しまれていた水野雄仁さん。現在はプロ野球解説者として活躍中です。引退して10年以上が経った今も、スリムながらがっしりした体型、さわやかな笑顔で、颯爽と取材場所に現われた様子はまさにスポーツマンという雰囲気。「13年と短いプロ野球現役生活でしたけど、いいライバルや友人に恵まれて、充実していました」と、穏やかに選手生活を振り返る水野さんの野球人生は、しかし一筋縄ではいかないものだったのです。徳島県で生まれた水野さんは、小学生のときお兄さんの影響で野球を始めます。

楽しい遊びとして野球をしていた水野少年が初めて「プロ」を意識したのは、忘れもしない12歳の誕生日。「王さん(王貞治氏)が世界記録になる756号ホームランを打ったんですよ。まるで僕への誕生日プレゼントみたいで、うれしくてね。あんな感動を与える人になりたくて、プロ野球選手を本気で目指す決意をしたんです」中学に入学しても、もちろんクラブは野球部。さらに自主的に野球道場にも通い始め、毎朝、毎晩、厳しい指導を受けて鍛錬に励みます。それもすべて、「甲子園に出場して、プロ野球選手になるんだ!」という夢のため。そんな水野さんの中学生離れした野球能力を見抜いた県立池田高校から「ぜひうちに来ないか」と声がかかったのです

甲子園3大会連続出場、そしてプロへ父の言葉に励まされて


池田高校での水野さんの活躍は、華々しいものになりました。当時の池田高校は、名将・蔦文也監督のもと、〝やまびこ打線〞と恐れられた打撃力と、1年先輩のピッチャー畠山準氏(元横浜ベイスターズ)、そして水野さんという充実した投手陣とで、向かうところ敵なしのチームへと成長していったのです。1982年夏の甲子園と、水野さんがエースとなった83年春の選抜甲子園では、堂々の2大会連続全国優勝! 日本中が「池田高校」と「エース水野」の名を知ることになり、ひたすら野球に励んできた高校生は、あっという間に有名人になりました。

「全国紙の一面や、セブンティーンなどの雑誌にアイドル並の扱いで載ったこともあります。つい勘違いしそうになるんだけど、監督は相変わらず厳しいし、池田は田舎で環境も変わらないし、やっぱり黙々と野球やってましたね」83年夏の甲子園でも水野さんはエースとしてチームを牽引し、準決勝進出の戦績を残しました。

甲子園3大会連続出場という輝かしい経歴をもって、水野さんはドラフト1位で読売ジャイアンツに指名されます。誰もがうらやむ順調なスタートで、あこがれていたプロ野球選手の仲間入り。しかし、トントン拍子に見えた水野さんの野球人生にも、試練が襲いかかります。85年のグアムキャンプでのこと、スーツケースのタイヤが階段に引っかかり、無理に持ち上げた衝撃で、肩の骨がずれてしまったのです。

肩と肘の故障。リハビリを乗り越えて

高校診断は、肩関節亜脱臼でした。どう手を尽くしても引かない痛みに単身渡米し、ピッチャーにとって命ともいえる肩を手術しました。「それはもう、ショックでしたよ。当時の日本では肩にメスを入れた投手の前例はなかったし、取り巻きのマスコミにも相手にされなくなって、不安と孤独でいっぱいでした」。しかし、水野さんはそのとき、「ちやほやされて調子に乗っていた。自分には野球でがんばるしか道がないのだ」と、自分を見つめ直します。地道なリハビリをコツコツ重ね、翌年にはみごと1軍に復帰。プロ入り初の2桁勝利を飾るなど、巨人軍の柱のひとりとなりました。「人間は潜在的にすごいパワーを持っているんです。それを信じて、なかなか成果の出ない治療を繰り返しながら、少しずつ進みました」。

完治したとはいえ、無理はできない肩になった水野さんは1試合の投球数を制限され、そのため先発ピッチャーではなくリリーフとして起用されるようになります。そして92年、さらなる挫折に見舞われました。肩をかばって投げるフォームのせいで、肘に遊離軟骨ができてしまい、再度の手術となったのです。「肩を壊したハタチの頃より精神的にはきつかったですよ。休んでいるうちに若いピッチャーが力をつけ、試合に出ているんです。『僕には戻る場所があるのか!?』と、非常に焦りました」。

歌手・女優:早見優それでも水野さんは「失ったものを悔やんでも仕方ない、リハビリ期間を有意義に使おう」と気持ちを切り替えます。苦手なバッターの資料を集めて研究し、速球が無理ならば球種を増やそうとフォークボールを自主的に身につけたのです。常に心にあったのは、蔦監督の口ぐせ〈勝負は一瞬の行、鍛錬は千日の行〉。一瞬のチャンスをものにするためには、毎日の鍛錬が必要だという言葉の通り、黙々と練習に励みました。
努力の甲斐もあって、再度の一軍復帰。それからは勝負度胸のある貴重な中継ぎ投手として、肩と肘に限界を感じて引退を決意する31歳まで、熟練の技巧派として数々の名場面で活躍しました。

引退後の水野さんは、巨人軍の投手コーチを経て、現在は野球解説者。「わかりやすくて偏らない解説を心がけています。そうすると、選手時代ともコーチ時代とも違う発見があるんですよね」と、相変わらず前向きです。そんなポジティブ・シンキングの秘訣とは?
「人生にはさまざまな選択肢がありますが、どちらかを選んだ以上、『もし、もうひとつの道を選んでいたら…』なんて、僕は絶対に考えません。自分の選んだ道で、ひたすら頑張るだけです。せめて自分ぐらいは、自分を信じてあげなくちゃね!」

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